自分や色んな患者さんを見てきて、最近改めて気づいたことがあります。
それは自分の身体を大切にすることの重要性です。
今更?と思うかもしれません。
私は心を大切にすることが治療にとってとても大切だと思っています。
それは勿論そうなのですが、心って見えないものですし心を大切にするって漠然とした感じがするし伝わりにくいかなって。
自分のことは分からないと言いますが、自分の心の癖、思い方は長年の間に構築され(親からの影響が一番大きい?)、それが当たり前と思って生きているのでなかなか気づきにくいものですよね。
そしてその心の癖で自らの身体を悪くしてしまうことがあります。
身体は奴隷ではない?
ある方に冗談を含めてこう言ったことがあります。
「あなたはブラック企業の社長さんみたいですね~(笑)」
と。
私から見てですが、その人は「大丈夫、大丈夫」と言いながら、でも現実的には身体を自ら悪くしてしまうことを何度もしているのです。
あなたを「心」としてあなたの「身体」を従業員としたら、あなたは従業員を自分勝手に使う社長みたいですね。
従業員はもう駄目だ。疲れた。もう動けない・・・と言っているのに、その声を聴こうとせず、大丈夫だ!大丈夫だ!まだ働けるぞ!と無理にこき使っている社長のように見えますよ。
そんなことを続けていたらいずれ従業員は動けなくったり言うことを聞いてくれなくなる。そして結局は会社自体が駄目になって社長であるあなたも大変なことになりますよ」
身体は借り物?
こういうことってちょっと宗教的?でもあるし、最近はあまり聞かなくなったように思いますが、
「身体は借り物」
って言いますね。
でも、やっぱりこういう考えって大切なように思うんです。
人には魂があって、その魂である自分が身体を借りて今という人生を生きている。
ある方が面白いことを言っていました。
「人が死んだら、『生前〇〇さんは・・・』と言いますよね」
〇〇さんは死んだのに、生きていた時のことを生前(生きる前)と言うのは?
まるで”死んだあと”のことを生きていると言っているように聞こえますね。
どちらが本当の人生なのでしょうか・・・
身体は一番身近なパートナー
それはここではともかく。
私が思うのは、魂があるとしてその表層として心があるとします。
その心と身体は別物ではないか?
と言うことです。
身体は借り物で身体は自分ではないとしたら(敢えて他人と言うなら)、その自分ではない他人である身体を身勝手にこき使ってねぎらいの言葉も労りもせず、というのは如何なものでしょうか?
もし自分が他人からこのような扱いを受けたらどうでしょうか?
とても良い気分にはなれないし病んでしまうかも知れないのではないでしょうか?
ですが私達は他人ではあるけど身近でもある身体(身内より近い身内のようなもの?)に対する有り難い気持ちを忘れてしまっているのではないでしょうか?
身体が痛みを出しているのは身体が「休ませてくれ」と言っているのではないでしょうか?
身体が動かなくなるのは身体が「もう限界だ」と言っているのではないでしょうか?
常に重ダルさがあって触っても痛みを感じなくなっているのは身体の声を聴こうとしないから身体が声をあげることを「諦めてしまった」のではないでしょうか?
身体との関係を大切にしましょう
身体は自分ではない身体は自分とは別物だ、という認識に立って、一番身近なパートナーとして考えることができたら、自分の我(心)を出すのではなく、身体に対する思い遣りの気持ちが持てるのかも知れません。
色々書きましたが、誰もが色んな事情があるので正論の通りには行かないと思います。
ですが、大切なことだと思ったので書くことにしました。
身体は一番身近なパートナーという感覚が育てば、身体と会話し上手に身体ともお付き合いできるのではないでしょうか?
人を喜ばせれば自分も嬉しくなるように、身体を喜ばせてあげれば結果として自分の心も気持ち良くなるのかも知れませんね。